奪われたからこそ見えてきた「場の力」

蕪木祐介さん連載 嗜好品の役割 第6回 「喫茶店のススメ」
Text by Yusuke Kabuki

家で飲む珈琲、喫茶店で飲む珈琲

喫茶店で珈琲を飲む時間は大切だ。
予定が空けば喫茶店に行きたくなるし、外出先で少し時間ができた時も喫茶店の扉を開けてしまう。

自粛生活を送る中で、家で過ごす時間の豊かさや、ゆとりのある時間の使い方の良さを再認識した方も多いだろう。家で丁寧に珈琲を淹れてゆっくり過ごす時間は心地良いものだ。しかし、この期間中、珈琲店、喫茶店で珈琲を飲むという場の力を強く意識させられた。

例え同じ珈琲を家で再現できたとしても、もしくは店でテイクアウトできたとしても、家で飲む珈琲と喫茶店で珈琲を飲む時間とは全く異なる魅力がある。こんな時期だから、さあ出かけましょうとは堂々と言えないけれど、店で人に淹れてもらう珈琲はやはり良いもので、そこで過ごす珈琲時間は美味しい珈琲を味わう以上の、精神的な役割を担っているのだろう(2020年6月掲載●)。

喫茶店の扉を開ける理由

私にとって喫茶店の扉を開ける理由はたくさんある。

まず一つが、少し立ち止まり、息を整える時間を作ること。目まぐるしく過ぎる出来事をゆっくりと振り返り、咀嚼し、自分と向き合う時間はとても大切だと感じている。この時間はどうも家で作ることができない。生活や仕事と切り離して過ごせる場所である喫茶店だからできるのだろう。

詩人・萩原朔太郎がしたためた30年ほど前の随筆の中で、忙しく過ごす大阪人が、銀座の喫茶店で一杯の茶で半時間もぼんやり座っている沢山の人がいることに驚く描写がある。「閑散を楽しむ文化の余裕」ということを述べているが、忙しく働く現代の日本人にとってもその価値は同じだろう。半時間だけでも、喫茶店でゆっくり珈琲を味わう習慣があるだけで、どれだけ心持ちが豊かになることだろうか。

情緒的になりたいときは、酒場にこもってアルコールの力を借りるが、しっかり思考を深めたい時にはやはり喫茶店で珈琲を飲むに限る。

私にとって酒場も不可欠だ。嬉しい出来事があって高揚感に湧いた時はもちろん、悲しい出来事があって、やるせない時でも、いつもその日の夜は酒場に駆け込んでしまう。そこでは自分の感情のありのまま、喜びを噛み締め、また、不運な自分を慰める。ただ、その次の日には喫茶店に行き、現状を受け入れ、さて、これからどう動こうか、なんて考え始める。大げさな言い方かもしれないが、情熱や欲の炎を沈め、傷を癒し、冷静さを取り戻してくれるのが喫茶店で珈琲を嗜む時間だ。そこで、明瞭な思考を持って時間を過ごせるのは、美味しさはもちろん、珈琲が覚醒の嗜好品たるゆえであろう。

昔と変わらない喫茶店の役割

そんな覚醒の働きを持つ喫茶店は17世紀のヨーロッパでも重宝されていた。

当時、それまで人々が集う場といえば酒場であったが、近代化、資本主義経済が活発化していたヨーロッパでは、「酩酊」の酒場に対して、アラビアから来たる「覚醒」のコーヒーハウスが時代に合ったものとして浸透していったのだ。その覚醒の力は、コミュニケーションの潤滑油として利用され、文化人、また市民の間で、活発に議論討論が繰り広げられるコーヒーハウスは、知の集積・発信地になっていった。

イギリスでは珈琲代さえ払えば誰でも入ることができるコーヒーハウスは、「ペニー大学」と呼ばれ、社交を通した学びの場ともなった。パリでは思想家や市民が政治に関する議論を重ねる場となり、フランス革命の発端になるバスティーユ襲撃も、パレ・ロワイヤルのカフェでの演説が発端だ。コーヒーハウスの普及が欧州諸国の近代化を促進したと言っても過言ではないだろう。

さらに珈琲を嗜む場の源流を辿ると、エチオピアの珈琲セレモニーにたどり着く。

珈琲の発祥の地、エチオピアでは、古来より、日本のお茶会(ティーセレモニー)ならぬ、珈琲セレモニーの風習がある。客を招くときや冠婚葬祭の際にも執り行われる儀式であるが、格式張ったものではなく、日常的に毎日のように行われている習慣だ。それは、炭火を起こして乳香を焚くことから始まり、じっくり豆を煎り、砕き、煮出した珈琲を落ち着かせ、上澄みの珈琲を小さなカップに注いで三煎目まで皆で嗜む。「お茶にでもしようか」といって簡単にできるものではなく、長いもので2時間以上。だが、どうやら心持ちは近いものがあるようで、この時間が社交の場としてとても大切なのだ。

珈琲を飲みながら皆で会話して笑い合い、交流する珈琲の時間がしっかり生活に組み込まれていることが、互いに信頼しあい、支え合う生活へとつながっているのかもしれない。

余白の時間

茶(珈琲)でもてなし、それを通して客同士、もしくは亭主と客が交流を深めるのは、今の喫茶店でも同じことだ。

日本ではそこに職人気質の特性や、茶文化、都市化などが影響し、さらに揉まれ、日本独自の喫茶店や、他の国にはあまり見られなかった珈琲専門店が発展してきた。現代の喫茶店はさらに、精神的に息を整える場として機能している場も多いように思う。昔の道端の水茶屋で疲れを鎮めるために腰をかけるように、現代の茶屋は心の休息の機能も担っているのだろう。さらに、年々、流通する珈琲豆の品質は向上し、各店主により高められた味わい深さは、より思考を深め、また、気持ちを穏やかなものにしてくれるだろう。

エチオピアの珈琲セレモニーのように毎日何時間も珈琲を飲んでいることはできないが、忙しい時こそ、喫茶店の扉を開き、余白の時間を過ごしたい。

エチオピアの珈琲セレモニーの様子。
エチオピアの珈琲セレモニーの様子。
喫茶店「可否茶館」跡地
日本には明治11年に現在の台東区の上野に喫茶店「可否茶館」が誕生した。珈琲だけではなく、書籍や新聞、ビリヤード、囲碁将棋、シャワー室まで備えた喫茶店で当時の鹿鳴館のようなエリート層のための施設ではなく、あくまで一般大衆に対しての社交サロンを目指したようだ。今はその跡地の看板のみが残る。

孤独を過ごす場

喫茶店は誰にでも平等な居場所だ。

珈琲代と周りへの気遣いさえあれば、年齢や身分や立場にかかわらず、どんな人でも受け止めてくれる。さらに、明るい気持ちだろうが、暗く、悲しい気持ちを抱えていようが、どんな感情でも受け止めてくれるのも珈琲、喫茶店の特性だろうと思う。

孤独感を強く感じてしまう時も、私が行くのは決まって喫茶店だ。誰にも干渉されない喫茶店はいつも味方で、自分が居ていい場所となる。

私が若い時分、社交的とは決して言えず、大きな宴会に呼ばれても、途中で馴染めなくなり、すっと抜け出して隣の喫茶店で時間を過ごしていたのを思い出す。また、そんな記憶と共に蘇るのが、よく逃げ込んでいた「珈琲マチェック」という喫茶店だ。看板もない店の扉を開けると、薄暗いカウンターの中には高倉健似の静かな老店主が佇んでいる。私は狭く急な階段を上がり、二階の席に座る。暗く、混沌とした不気味な印象の店内も、心持ちによっては安堵につながるものだ。珈琲を口にしながら、日頃抱えている惨さだったり、虚しさだったり、暗愁を感じながらも、時に励まされていた。マチェックがあった場所は、今はコインパーキングとなっている。引っ越しをして店に足を運ばなくなって久しいが、その逃避場所がなくなった知らせを聞いたときは急に放り出されたような寂しさを感じた。

マチェック
マチェックはじめ、日本にはたくさんの仄暗い喫茶店が古くからある。そこにある陰影から、自分の店も知らず識らず影響を受けているのであろう。

喫茶の仕事

疫病の蔓延に伴って緊急事態宣言が発令され、私の店も喫茶の営業は休み(現在は再開)、チョコレートの製造と珈琲の焙煎に没頭する日々となった。拠り所として機能する喫茶店に行きにくくなった世界ならば、せめて家での珈琲時間の役に立つことこそが自分達が果たすべき役割なのではないかと必死になっていた。

しかし、改めて考えさせられたのが、喫茶でカウンターに立つよろこびだ。

「喫茶」と「イートイン」は私にとっては全く異なるもの。喫茶店に立っている方々は、まるで茶事の亭主のように、そこで過ごしていただきたい時間、受け取ってもらいたい感情を考え、珈琲の味は言わずもがな、季節や時間、シチュエーションに応じて、しつらえ、音、立ち振る舞いにも気を配っているだろう。私は食べあわせるものや、その人の様子に合わせて、微妙に珈琲の淹れ方を変えて味も調整してしまうこともある。とても勝手な店だ。もちろん、このように感じていただきたい、という思いはあっても、堅苦しいものであってはいけない。受け取り方はそれぞれ自由であるべきで、それぞれの楽しみ方をしてもらいたい。皆の人生の一コマで、少しでも役に立っているのであれば、それは珈琲屋冥利につきるものだ。ただ、自分たちが届けたいことが届いていると感じたときの嬉しさも、喫茶を営む醍醐味の一つだろう。

人対人の仕事の大切さ。これも相手の顔が見えない休業期間に再認識させられた感覚であり、お客様と向き合いながら仕事ができる有り難みを感じている。

カウンター越しに座るお客さまと向き合い仕事をする
カウンター越しに座るお客さまと向き合い仕事をする。それは当たり前なことではなく、いかに有り難いことか。

自分の肌に馴染む喫茶店を見つける

街には様々な形の喫茶店がある。

古き良き、社交の場となる大衆喫茶では、自分たちが理性の嗜好品を片手に語らうのはもちろん、よその人たちが熱く討論する内容に耳を傾け、一人学びや情報を得るのも楽しい。仕事の一服に、そして、生活の句読点となる美味しい一杯を飲み、常連さんとの会話も弾み、優しい気持ちになって帰ることができる人情溢れる喫茶店もとてもあたたかい居場所だ。黙々と仕事をする店主の姿を眺めながら、静かに珈琲を嗜む喫茶店。夜中に逃げ隠れるように扉を開けてしまう喫茶店。住宅地の中にあるオアシスのような喫茶店。はたまた、田舎にポツンと佇む喫茶店。それぞれの喫茶店には店主たち、そして客たちの様々な珈琲時間にまつわる想いに溢れている。

肌に馴染む有機的な喫茶店をいくつか持っていると、毎日がより気持ち良いものとなり、支えとなってくれるだろう。

転載元:The Cuisine Press|Web料理通信、蕪木祐介さん連載 嗜好品の役割 第6回 「喫茶店のススメ」

PROFILE

 

蕪木祐介

蕪木祐介

岩手大学農学部を卒業後、菓子メーカーに入社。カカオ・チョコレートの技術者として商品開発に携わる。2016年、自家焙煎の珈琲とチョコレートの喫茶室「蕪木」をオープン(2019年12月移転、再オープン)。2018年には、盛岡で40年以上愛されてきた喫茶店「六分儀」(2017年11月に閉店)を、佇まいはそのままに「羅針盤」の名前で復活させた。著書に『チョコレートの手引』、『珈琲の表現』(共に雷鳥社刊)。
http://kabukiyusuke.com/

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